「救急に生きる」インタビュー03<br>ネパール地震のJDR医療チーム

山本大樹 Daiki Yamamoto

Daiki Yamamoto

Interview

「救急に生きる」インタビュー03
ネパール地震のJDR医療チーム

救急隊員は一人一人、「人の命を救いたい」という熱い思いを胸に秘めて生きている。その思いをベースに、どんな考えを持ち、どんなことに情熱を注いでいるか。3人の救急隊員に聞いた。

写真◎伊藤久巳(特記を除く)
Jレスキュー2016年11月号掲載記事
※役職、肩書は取材当時のもの

Twitter Facebook LINE

「ネパールでも、どう温かく接するかを心がけて活動した」

救助チームではなく、医療チームでの国際派遣

消防の国際派遣といえば、IRT(国際消防救助隊)、JDR(国際緊急援助隊)・救助チームの活動が広く知られているが、わずかであるがJDR・医療チームの一員として活躍する消防職員もいる。救急救命士の山本大樹は、2015年(平成27年)4月25日にネパールで発生した地震において医療チームの2次派遣隊として八戸地域広域市町村圏事務組合消防本部から出動した。

消防が医療チームに参加する場合の役割は『医療調整員』となる。医師や看護師と異なり、医療関連資格の有無は問われないが、5年以上の実務経験が必要となる。そして、実際にJDRのチームとして出動するためには、派遣メンバーとしてのJICAへの事前登録が必要になり、その際は所属組織の登録許可が必要となる。救助チームの場合は、消防レスキュー隊が主要メンバーとなるため、いつ海外で大規模な災害が発生してもチームを編成して出動できるように組織的に一定の登録数を確保しているが、医療チームの医療調整員は必ずしも消防である必要がないため、各所属の理解が得られなければ派遣隊員として登録して出動することができないという点も救助チームとの違いといえる。

救急に生きるインタビュー03
救急車内での出産に4回立ち会う

山本がJICAの国際派遣活動があることを知ったのは中学生だが、すでに就学前からポンプ隊やレスキュー隊ではなく〈救急隊〉に憧れ、救急車に乗務して活躍する将来像を描いてきた。中学生の頃になると、ただ救急隊員になるのではなく、「日本を代表するような救急隊員になりたい」と考えるようになり、目覚まし時計のストップボタンに「JAPAN」のシールを貼り、毎朝目覚ましを止めるたびに「よし、日本代表になるぞ」と自分に言い聞かせていた。専門学校を卒業後、姫路市消防局で応急手当普及支援員、東海大学医学部付属病院高度救命救急センターで研究員を経験した後に、消防本部で救急隊としての人生をスタートさせた。JDRに登録するからにはある程度の経験を積んでからと考えていた山本は、10年間は救急業務に集中すると決めていた。

その間、山本はCPA事案に数十回遭遇し、救急車内での出産に4回も立ち会った。

「出産はこれから生きて行く人の命と母体の命を預かる責任重大な業務で、処置をひとつ間違えれば死に直結するので、初めて対応した時はとても緊張した」という山本は、スキルアップの必要性を感じ、日本の救急救命士の中で初めて新生児蘇生法インストラクターの資格を取得した。

救急隊一筋で10年目を迎えた32歳のとき、直属の上司に自分の考えを伝え、JDRに登録する許可を得た。登録に際してはJICA、職場、本人の3人で覚書を交わす必要があり、仮登録、導入研修等を経て正式登録へと進む。

いざ登録してみると、他の登録メンバーのレベルが高く、「もっと勉強しなければ」と感じた山本は、消防業務を続けながら八戸から東京(多摩市)の国士舘大学大学院に通うことにした。8時半に交替すると9時5分の新幹線に飛び乗り、午後からの授業に出席し、最終の新幹線で八戸市に戻り、翌朝8時半に勤務する生活を続け、修士を取得した。

「それまでは単純に救急がやりたい一心でしかなく、物事を突き詰めて研究する経験がなかったが、海外で活動する際の国ごとの宗教の違い、文化の違いを勉強し、物事へのアプローチの幅が広がったと思う」(山本)

救急に生きるインタビュー03
救急車で搬送されてきた負傷者をおんぶして病院内へ搬送する山本。(写真/独立行政法人国際協力機構)
ネパール地震発生 2次派遣でついに出動

2015年(平成27年)4月、ネパールで大規模な地震が発生し、JICAよりJDR医療チームを派遣するという連絡が入ると、すぐに上司の許可を得て「出動できる」と手を挙げた。1次隊には選ばれなかったが、いつ出動メンバーに選ばれてもいいように現地の気候等を調べた。すると現地はすでに気温40℃の真夏。青森の4月はまだ寒く、自宅ではサウナスーツを着用して過ごし、近所のサウナにも通って体を慣らした。支援活動が長期化すると判断したJICAが2次派遣隊を出すことを決めると、山本に声がかかった。

日本の医療チームは過去最大規模の1チーム34名で出動し、どこの支援国よりも山奥のシンドバルチョーク・バラビセに診療所を開設していた。そこには医療を待ち望んでいた住民が1日に100名ぐらい訪れており、なかには山間部から7時間かけて歩いて来る人もいた。日頃、日本で対応している救急医療とは質がまったく違っていた。

山本の現地での役割は、一番最初に患者らに接し、順番待ちの人の中に重症者がいないかどうかのトリアージを行い、いなければ順番にカルテを作って医師に引き継ぐことだった。

「問診はいつもの救急活動と同じだが、病気以上に精神的に弱っている人が多いという印象があったので、その人たちにどう温かく接するかを心がけた」という山本が行ったのは、背の低い患者と話すときはひざまづき、目線を同じ高さにして「ナマステ」と最初に現地の言葉で挨拶することだった。

「ナマステと言うと、必ずニコッと笑ってくれて緊張がすこしほぐれる。普段の救急活動でも高齢者を搬送することが多いが、腰が曲がった高齢者などに接する際はこちらがしゃがんで『どうしましたか?』とたずねるとたくさん話をしてくれていたので、ネパールでもそう心がけた。最初の問診で患者の心を開くことができ、必要なことを聞き出せた。もし最初に『この人は恐いな』という印象を与えてしまったら、その後の聞き出しも上手くいかなかっただろう。同じ医療調整員として参加していた津市消防本部の伊野救急救命士にアドバイスを頂き、協力して行えたのがよかった」

救急に生きるインタビュー03
日本チームの診療テントでの受付準備をする様子。カルテはすべて英語で書かなければならず、徹夜で勉強して覚えたという。(写真/独立行政法人国際協力機構)
もっと多くの命を救うために

救急隊員としてさまざまな経験を積み、実力をつけていた山本だったが、2016年3月末で消防本部を退職し、新たな道を歩み始めた。山本の考えを変えたのは2011年に起きた東日本大震災だった。

「自分はいつも一人の命を助けるために出動しているが、東日本大震災ではたった1回の地震で一万数千人が亡くなった。もっと多くの人の命を助けるためには、何かが起こってから出動するのではなく、体制から変えなければいけない」と痛感した。では救命の事態にならないようにするにはどうしたらいいか? と市民の安全と健康を考えたとき、住民のことを理解するには民間企業での経験が必要だと考え、35歳で転職を決意した。転職後は防災や健康危機管理分野の仕事に従事し、新たな道で市民の命を守るためにできることを模索する傍ら、災害被ばく医療の勉強を行っている。

救急に生きるインタビュー03
ネパールは親日国で、両手を合わせて「ナマステ」と挨拶すると、皆応えてくれた。(写真/独立行政法人国際協力機構)
救急に生きるインタビュー03
ネパール地震で活動を共にした医療チームのメンバー。(写真/独立行政法人国際協力機構)
山本大樹

山本大樹やまもとだいき

1981年(昭和56年)、青森県八戸市生まれ。2002年(平成14年)神戸医療福祉専門学校三田校救急救命士科卒業。姫路市消防局、東海大学医学部付属病院での研究員を経て平成16年4月平塚市消防本部消防士(救急隊)拝命。平成19年4月八戸地域広域市町村圏事務組合消防本部消防士拝命。平成26年国士舘大学大学院救急システム研究科卒業。平成28年4月、福島県立医科大学大学院健康リスクコミュニケーション学講座修了。都内医療コンサルタント会社へ就職、現在に至る。平成28年国際緊急援助隊感染症対策チーム登録。

救急隊員は一人一人、「人の命を救いたい」という熱い思いを胸に秘めて生きている。その思いをベースに、どんな考えを持ち、どんなことに情熱を注いでいるか。3人の救急隊員に聞いた。
写真◎伊藤久巳(特記を除く) Jレスキュー2016年11月号掲載記事 ※役職、肩書は取材当時のもの

Ranking ランキング