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【コラム】トミカで見る救急車の歴史(前編)

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トミカ・ハイエース コミューターRH18V型 救急車

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トミカ・ハイエース コミューター救急車。屋根上にある赤色警光灯の台座内部にはサイレンスピーカーが内蔵され、中央部には換気口があり、リアルなモデルとして製品化されていた。

昭和45年(1970年)から昭和52年(1977年)頃まで販売されていたトヨタ・ハイエース コミューター救急車。ベース車種が従来のクラウンからハイエースに代わり、室内の作業性が大幅に向上している。この救急車から「ワンボックスタイプ」が主流となり、2つのベッドが備わった「2B救急車」と呼ばれ、日本の消防機関において主力となっていった。

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後部をメトロポリタン型と比べると、後部ドアの構造が観音開きから、跳ね式へと進化している。観音開きは、ドアを開放した際にブレーキランプや補助赤色警光灯が隠れてしまい視認性が悪いなどといった理由から改良されたもの。

ニッサン・キャラバンE20型 救急車

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昭和48年(1973年)から昭和55年(1980年)まで販売されていたニッサン・キャラバン救急車(浜松市消防本部特注トミカ仕様)。車内室高がハイルーフ化され作業性が向上している。

トヨタ・ハイエースLH66V型 救急車

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昭和61年(1986年)から平成元年(1989年)まで販売されていたトヨタ・ハイエースLH66V型 救急車。赤色警光灯が筒形からバータイプとなり、赤色警光灯の進化がこの時期から始まった。

日産パラメディック救急車

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平成5年(1993年)から平成9年(1997年)まで販売されていた日産・アトラス20をベースシャーシに製作された「日産パラメディック救急車」。

平成3年(1991年)当時、欧米における救急業務には、ドクターカー制度(医師が同乗している救急車制度)やパラメディック制度(救急隊が救急現場で医療行為の一部を行う制度)が導入されていた。その流れを受け、日本でも救急搬送途上の医療の充実と、傷病者の救命率の向上を図るため、政府はこれらの制度をわが国にも導入しようと、それまで禁止されていた医療行為の一部を実施することができる救急救命士制度を創設する方針を打ち出した。そして、救急救命士法が制定され、同年8月5日に施行された。

この法律の制定に伴い、所定の教育訓練を受け、国家資格を有する救急隊員は、電気的除細動、静脈路の確保、器具による気道確保等の高度な処置を行えるようになった。救急車においても隊員の疲労軽減のため、これまで中腰で活動していた車内室高を、立つことのできる高さに改良(拡張)し、傷病者の搬送中の負担も軽減する防振台装置が開発された。また、救急車両の規格として、従来の2B型救急車(普通救急車)に加えて、高規格救急車という新たなカテゴリーが誕生した。

次回後編では、特殊救急車、消防車と救急車が一体型となった消防救急車、EV救急車などを紹介する。お楽しみに!

子供から大人までに大人気のミニカー。その中でも「トミカ」は知らない人がいないほど有名な玩具である。JレスキューWebでは『トミカで見る救急車の歴史』として紹介していく。
写真◎編集部

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