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電車内でのテロ災害に備え、
東京消防庁練馬消防署が警視庁、西武鉄道と合同訓練
3月2日には「火災予防フェア2024」を開催
東京消防庁の春の火災予防運動の一環として、練馬消防署内を開放した「火災予防フェア2024」が3月2日に開催された。
この日は消防車への体験乗車、資機材の説明、応急救護体験、防火帽と防火衣を着装して乗車するミニ消防車体験など盛りだくさんの内容で、来場者が思い思いに楽しんだ。
また、プログラムの一つとして練馬消防署貫井消防出張所の消防司令・松井浩二所長が描いた絵画約40点が展示された。特別救助隊長、大隊長などを歴任してきた経験をもとに、勤務の合間に描いてきたもので、こちらも好評を博した。
消防司令・松井浩二東京消防庁 練馬消防署 貫井消防出張所 所長
各特別救助隊(隊長を含む)、消防学校教官、各署で大隊長などを歴任するかたわら、余暇に絵画を描き続けている。アール・エスポワール展にて都知事賞、石坂浩二特別賞、世田谷美術館長賞などを受賞。台東区谷中で個展「ファイヤー・ファイター展」を2回開催するほか、毎年池袋のイメージ・アート展(グループ展)に出品する。人命検索、人命救助のための火点進入時の情景など、消防隊員ならではの視点が賞賛される。
「絵の中の隊員のどこに力が入っているかが重要。たとえば、右肘、右肩に力が入っていれば、人間は右側の骨盤が上がってくるものだ。そんな重心を見極めて描いている。火点進入の絵では、進入隊員に向かって天井から熱気が垂れてくるイメージも描ききらなければならない。絵は一生描いていきたい」
救助の要職を歴任
練馬消防署 冨岡豊彦署長インタビュー
消防監・冨岡豊彦東京消防庁 練馬消防署 署長
昭和57年、東京消防庁目黒消防署消防士拝命。
特別救助研修第22期(昭和59年)。
目黒特別救助隊、練馬特別救助隊を経て、品川特別救助隊で隊長。さらに第二消防方面本部消防救助機動部隊で隊長、第六消防方面本部消防救助機動部隊で部隊長、総括隊長。IRTとしてアルジェリア地震災害に派遣(平成15年)。消防監昇任後は日野消防署長、小石川消防署長を経て、令和4年10月から現職。
消防監・冨岡豊彦練馬消防署長にお話をうかがった。冨岡署長は各特別救助隊、第二、第六消防方面本部消防救助機動部隊などで要職を歴任。2011年(平成23年)の東日本大震災当時は六本部機動部隊で総括隊長の職にあり、福島第一原発事故災害に出場。現場を見て作戦を立て、部隊指揮を執り、結果的に原子力災害から多くの国民の生命を護ったことはあまりにも有名。今年度末での勇退が迫った今、改めてお話を聞いた。
―――練馬消防署ではどのような指導方針でやってこられましたか?
「署員に対し“殉職者を出すな、受傷事故を起こすな”をいわば業務命令として掲げてきた。これは、特別救助隊、消防救助機動部隊の頃からの指導方針とまったく変わらない。そして、職員の教育、人材育成に力を入れてきた」
――これまででもっとも印象に残る災害を教えてください。
「平成20年の首都高速5号線熊野町JCTのタンクローリー横転事故火災が印象に残っている。六本部機動部隊を率いて応援出場すると、当該車両が激しく延焼中だった。大型化学車の3000型モニターノズルを活用して鎮圧したが、この大火災を消せなければ消防のプロとして失格、消防を辞めるべきという思いで活動した。昭和60年に目黒特別救助隊で目黒区柿木坂のタンクローリー横転事故火災に出場し、大量の泡放射を一度に実施しないと消せない教訓が生かされた」
――平成23年の福島第一原発事故災害への出場について聞かせてください。
「先遣隊として福島第一原発に自ら東京消防庁としての第一歩を標し、続いて現着する活動隊の送水作戦を策定。収束への足がかりをつくった。使用済み核燃料プールに注水するためにはあの方法しかなく、誰も反対しなかったが、今でもあの作戦の判断は正しかったのか自問する。隊員たちは作戦どおりに活動してくれたが、その際に災害状況の急変がなかったことは幸運だった」
――今年3月でご勇退とのことですが、今後について教えてください。
「今後は自らの消防経験を社会の役に立てたい。消防職員、そして日本の災害対応について研究し、広めていきたい」