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【ドキュメント】御嶽山噴火災害
―緊急消防援助隊―
愛知県隊大隊長に聞く御嶽山救助活動ドキュメント
降ってきた噴石の間に挟まった要救助者
救出にはやはり消防が力を発揮した
愛知県隊は御嶽山噴火災害発生当日の9月27日20時30分に出動が要請された緊急消防援助隊4都県隊の一つである。
当初の出動隊はいずれも名古屋市消防局から出ており、第1次隊(指揮隊1隊、救助中隊5隊、特殊災害中隊1隊、後方支援中隊1隊)は9月28日5時30分に現地入りして同日の7時30分から入山を開始、11時から山頂で救助活動を行っている。
以後は昼過ぎに愛知県を出発し夕方に現地入り、翌日の朝から活動を開始して1回登ったら交代するというローテーションを組み、噴煙や天候などの都合で活動できない日は待機とし、翌日に繰り越すことにした。
そこで、第1次隊と交代する第2次隊(救助中隊5隊、特殊災害中隊1隊、後方支援中隊2隊)、第3次隊(指揮隊)は9月28日の午後に移動して現地入りし、29日に活動を行った。愛知県隊は活動初日の28日は黒沢口登山道から上がって活動を行ったが、2日目のこの日は王滝口登山道から5隊、黒沢口登山道から2隊と2ルートに分かれて登山を開始した。前日の救助時に階段が灰で埋まっていたことから、スコップも携帯していた。王滝口隊は8合目で噴煙および硫化水素濃度が高くなったため下山。黒沢口隊は山頂付近で心肺停止者6名を確認し自衛隊のヘリコプターで搬送した。
そして29日、これらと交代する第4次隊に出動要請がかかった。
9月29日朝「今日、行ってくれ」
いつも通りの朝、名古屋市昭和消防署に出勤した消防第一課長渡邊勝己に消防部消防課の小出豊明課長から一本の電話が入った。その内容は「愛知県大隊長として今日行ってくれ!」というものだった。
愛知県の緊急消防援助隊派遣計画では県大隊長は名古屋市消防局各署の消防第一・第二課長から選定する取り決めになっている。実際に御嶽山に登り現場の状況を見た指揮支援隊長加納利昭は、活動環境の過酷さからできるだけ若手の隊長を派遣するよう指示していた。派遣が長引きそうだという情報を受け、名古屋市消防局も派遣の体制を急いで進めているところだった。それを受け、渡邊は当日勤務のメンバーから若手を中心に隊編成を行った。
出発はその日の午後。名古屋市消防局の全隊集結は名東消防署15時00分である。
9月29日14時30分
集合時間の30分前にはすでに、渡邊および昭和消防署の指揮隊6名、救助中隊5隊25名、特殊災害中隊1隊5名、後方支援隊2隊4名が集結した。各隊の車両を運転する機関員以外の隊員は、本部指揮隊の車両やマイクロバスなど4台の車両に分乗して進出拠点である「道の駅 木曽市場」に向けて出発した。また、これに先立つ第2次隊からは名古屋市消防本部以外から後方支援隊2隊11名(豊橋市隊、田原市隊)が愛知県隊に追加され、後方支援活動も本格化していく。
9月29日18時
進出拠点に到着。指揮支援隊長から翌日の活動に対する指示を受けた後、野営地になっている開田高原にある開田レクスポセンターに移動した。渡邊は小隊長を集めブリーフィングを行い、入手できた情報はそう多くなかったが全員で共有して翌日の捜索に備えた。
9月30日、活動中止
発災3日目。この時点で陸上自衛隊、警察(長野県・岐阜県)、消防隊間の連携はかなり密になっていた。前日の陸上自衛隊との調整により、この日から消防隊員を大型ヘリコプターCH-47チヌークで山頂まで輸送することが決まった。徒歩で登山することにくらべれば活動時間は格段に長くとれるようになり、肉体的な負担も軽減される。人員の搬送だけでなく、重量のある資機材の搬送も可能だから、救助活動の効率は飛躍的に高まるはずだ。
この日、CH-47に搭乗できる愛知県隊の人数は20人。残り16名は黒沢口登山道から山頂に向かう陸上部隊として頂上にアプローチする計画だ。隊員らは朝7時の自衛隊ヘリコプターの離陸時間に合わせ3時に起床、5時に宿営地の開田レクスポセンターを出発した。航空部隊は場外離着陸場がある松原スポーツ公園でフライトを待つ間、火山性ガスの数値悪化で撤退する際の伝達方法を徹底した。現場活動への意欲をみなぎらせて待ちかまえる隊員たち。だが、予定の7時になっても火山性微動が収まらず、フライトは一旦キャンセルとなる。毎正時に合同調整会議を開き火山性微動の収束を待ってフライトする方向で待機を続けた。
一方、黒沢口登山道から山頂に向かう予定の陸上部隊は風向きの影響で噴煙が流れ込んでいるために登山できず、王滝登山口に移動して待機していた。しかし、最終的には火山性微動の増加により、この日の活動は中止になった。
愛知県隊のプランでは一日登って救助活動を行い交代するというローテーションを採用していたので、一行はそのまま宿営地に戻り、翌日の救助活動に備えることになった。
10月1日、11名の心肺停止者を救出
この日は陸上自衛隊のCH-47に8名が追加搭乗することが可能となり、愛知県隊は28名の航空部隊と8名の陸上部隊に分かれ、陸上部隊の8名は山梨県隊の傘下に入り救助活動を行うことになった。次のヘリコプターに搭乗する長野県隊と山梨県隊に山頂で合流し、この日の航空部隊は愛知県隊の指示で救助活動を展開する。
7時20分に予定通り飛び立ったCH-47は15~20分ほどで二ノ池に着陸した。CH-47の窓から見た光景を「大型ヘリの騒音にも驚いたが、離陸して高度が上がるにつれ紅葉が綺麗になっていった。山頂付近は噴煙が上がり、青い空とモノトーンの世界がまるで別世界のように感じられた。次第に恐怖感が込み上げたが、助けに行くという気持ちがそれを打ち消した」と渡邊は回想する。
ミッションは、岩に挟まれた状態の心肺停止者5~6人を岩を砕いて救出すること。そこでハンマードリル3基、発電機6基、ガソリン燃料缶をCH-47に積み込んでいた。山頂から警察と自衛隊がヘリコプターで要救助者を搬送している間、バールやスコップ、ロープなどすべての資機材を少し登ったポイントに集結させ、そこから必要な機材だけを厳選して持って登る計画をたてた。
抜けるような青空の下、二ノ池から山頂まで登っていく。火山灰で足が取られ、満足に歩を進めることができない。部分的にぬかるみも多かった。晴れてはいても目に見えない微細な火山灰が舞っており、ゴーグルを拭いてもすぐに視界が悪くなり、隊員のヘルメットや防火衣に白い灰が降り積もった。
一ノ池のすり鉢状の地形の中には、無数の噴石の跡が確認できた。この日の御嶽山は不気味なほど静かだった。山頂付近は風が強く、風の音だけが聞こえていた。「初日に登った第1グループからは『岩に持たれると震動が伝わってきた』と聞いていたが、全く感じなかった。恐ろしい程の静寂に包まれていた」と渡邊はその時の状況を語る。
山荘に到着すると、そこにも想像を絶する光景が広がっていた。屋根は噴石の直撃を受け穴だらけ、室内にも火山灰が厚く積もっていた。御嶽神社に登る石段は火山灰で埋まり、まるで滑り台のようになっている。その横にある手すりも噴石が直撃したのが、グニャリと曲がっている。
愛知県隊に指示された活動場所は御嶽神社北側の急斜面にある岩場で、危険度が非常に高い。現場に到着すると、一刻も早く救助活動を始め救出したいと気持ちがはやる。そこで木曽広域消防本部と山梨県隊に自己確保の設定を依頼するなど、互いにカバーし合う協力体制が自然とできあがっていた。
4名が岩と岩に挟まれているようだった。積もった火山灰を手でかき分けながら状況を確認すると火山灰に深く埋もれている状態で、持参したハンマードリルを使わずに手で火山灰を排除することで救出できた。次のCH-47で到着した長野県隊4隊に搬送を託した後、9時30分に指揮支援隊に携帯電話で活動内容について報告した。
風向きが南風に変わると、噴煙は一ノ池方向に流れてくる。わずかに硫黄臭がしたが、ガス濃度は最大でも0.8ppmと活動中止にするほどではなかった。噴煙が太陽の光を遮ると、灰色一色の不気味な世界が現れた。
次の指示は、御嶽神社の下、お鉢巡りと言われる尾根部分の捜索で、特に八丁ダルミで人手が必要とのことだった。渡邊が一ノ池と八丁ダルミに隊を分け活動を計画していたところ、県内応援隊から八丁ダルミ周辺は各隊が集結し人員は足りているとの情報が寄せられた。そこで愛知県隊は一ノ池周辺の捜索に専念することを決めた。
一ノ池にも自衛隊と警察が集結し始めており、消防隊も加わって埋まっている要救助者を捜索するローラー作戦が計画された。その矢先、ガイド役を務めていた木曽広域消防本部の隊員が斜面上部に先回りし、岩場の影に心肺停止者を発見したとの無線連絡が入る。渡邊はすぐに小隊を移動させ、半分埋まっていた要救助者をバスケットストレッチャーに乗せて救出した。同時に進行していたローラー作戦では、尾根の半ばの岩場の下に横たわる心肺停止者を発見。こちらも救出し、他隊の協力を得ながら一ノ池に設けた搬送者の集結地点まで移動した。
この日、愛知県隊は6名の心肺停止者を救出した。活動終了は14時00分の予定で、CH-47が離着陸する二ノ池に戻るため13時30分に山頂を出発した。だが、迎えのCH-47がやってきたのは予定時刻を大幅に過ぎた15時30分頃だった。隊員達は、活動を開始してから殆ど水も飲まずに活動を続けていたので、ヘリコプターを待つ間に束の間の休息をとることができた。
王滝村役場に戻った渡邊は、指揮支援隊に活動報告を行った。この日の朝まで緊急消防援助隊の指揮支援隊は木曽広域消防本部に置かれていたが、午後には自衛隊と警察が現地合同指揮所を置く王滝村役場にその機能を移していた。活動報告と未捜索部分の確認を行い、後続部隊にバトンタッチ。大型ヘリコプターCH-47搭乗の際には、耳栓が不可欠なことも申し送り事項として報告した。
その後2時間ほど記者会見を行い、ロッジ三笠に戻って20時に現地を出発、24時に名東消防署に帰還し解散した。
この日まで現場で活動する愛知県隊の救助隊はすべて名古屋市消防局から派遣されていたが、10月2日の活動からは名古屋市消防局以外の救助隊も参加するようになる。10月16日の活動終了までに参加した隊は表1の通りで、計152隊628人に及んだ。
緊急消防援助隊 愛知県隊 大隊長 渡邊勝己
名古屋市消防局 昭和消防署 消防第一課長 消防司令長
厳しい現場だったが、 組織の枠を超えて活動できた
私が派遣されたのは愛知県隊として3日目だったので、大まかな状況がやっと掴めてきた頃。指揮支援隊からの情報が頼りだった。隊員を引き連れていく身としては、その責任の大きさを感じていた。消防官として「ひとりでも多くの方を連れて帰る」ことは当然のことだが、愛知県大隊長としては事故や怪我をさせずに隊員を無事に帰すことが大事だ。そこで小隊長には安全管理の徹底を再三確認させた。
陸上自衛隊や警察(長野県・岐阜県)は大規模な宿営地に滞在しており、何度も御嶽山に登っている隊員が多い。一方、緊急消防援助隊は地元の消防力を維持しつつ何とかやりくりして派遣されている。いわば寄せ集めの隊と言わざるを得ない。活動自体に限界があるのも事実だ。それゆえに情報の申し送りや高い危機管理意識が不可欠となる。
そんな状況下でも指揮下にあった各小隊は成熟していて、やるべきことを理解していた。5人の指揮隊員も私の意志を的確にくみ取り、各小隊に付いてよく伝達し動いた。活動現場は見渡せるような範囲だったが、愛知県大隊長として私はその活動を見守るだけだった。特に大切にしたことは、後続部隊に対し情報伝達を完ぺきに行うこと。写真や時間管理など、可能な限り詳細に記録するように指示した。
食料は、簡単に食べられるものを一食分と、飲料水(500cc×3本ほど)を持つように指示し、各自リュックサックに入れて携帯した。台風など降雨によりぬかるんだ足場で活動した後半の隊よりは条件は悪くなかったが、標高が3000mある場所での活動で、防火衣にはインナーをつけていたがそれでも寒く感じた。隊員各自の経験から、後続隊には保温性の高い下着の必要性も申し送られていた。
我々名古屋市消防局は都市型レスキューの経験しかない。緊急消防援助隊は要請があれば、いかなる状況、どんな場所にも出向き、生存の可能性がある限り、一刻も早く駆け付け、体を傷つけないように救助する。それが我々のモチベーションだ。しかし山岳救助、まして噴火する山や岩場での環境は全く想定していなかった。そんな中でも隊員はよく動き、よく活動してくれた。隊員を誇りに思うが、その反面、安全の担保が取れない中での活動だったことは隊員に対し申し訳なく感じている。指揮支援隊もこの点には十分配慮していたが、それだけ厳しい現場であったことも事実である。
今回の出動は、私自身にとって初めての緊急消防援助隊出動であった。過去の緊急消防援助隊の活動では、自衛隊や警察、消防の連携がうまくとれないという話がよく挙がっていたが、今回の活動では陸上自衛隊の部隊長や警察(長野県・岐阜県)とスムーズなコミュニケーションがとれ、垣根は全く感じなかった。着ている服は違うが、ひとつの目的に向かって組織の枠を越えて行動できた。急斜面の活動ではバスケットストレッチャーの吊り降ろしで他隊が率先してサポートしてくれたり、自己確保のロープなど互いの資機材を気軽に使い合った。そこにある資機材を有効に使う。山頂での活動は、各機関がひとつになっていた。
下山して活動報告をしているときの出来事を思い出す。一ノ池の尾根付近でリュックサックが落ちていることを申し送りしていたとき、自然と自衛隊と警察が集まって全隊がひとつになった。私自身にとっても特別な経験、貴重な一日になった。