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PH試験紙は化学剤検知に使えるか?
HAZMATとCBRNの流れを踏まえて
【前編】
Jレスキュー本誌の連載「世界のCBRNe 最新トピックス」の著者の浜田昌彦氏の記事をJレスキューWebでも掲載。今回のテーマは「PH試験紙は化学剤検知に使えるか?」。著者の経験と近年の事例を交えて前後編で掲載します。
文◎浜田昌彦
はじめに
全国各地の消防学校や消防本部を回っていて、講義や講演でよく聞かれる質問の中に表題のような「PH試験紙は化学剤検知に使えるか?」という質問がある。そこで、自分でインターネット通販でPH試験紙を注文し、自転車油をこれにかけてみた。色は変わらなかった。「水溶液」の酸性、アルカリ性の度合いを判定するのが本来のPH試験紙の使い方である。エンジンオイルやサラダ油のPHを測っている人は見たことがない。同じように、マスタードやVXをPH試験紙で検知しようとしている人もみたことがない。
水素イオン濃度がPHだとすれば、それは水溶液中にしか存在しえない。PH試験紙と似たものにリトマス試験紙がある。リトマス試験紙には、「リトマスゴケ」から取り出した染料がしみこませてある。この染料の成分のひとつ「アゾリトミン」という色素の分子は、酸性やアルカリ性に反応して分子のつながり方が変化する。言い換えれば、二重結合の強さが変化するので、色が変わって見える。吸収する光の色(波長)が変わる。これに対して、化学兵器の検知に使われる米軍のM8検知紙は、赤や青、黄色の染料の「粒」が分散含侵されている。その粒がマスタードやサリンで「溶ける」ので色が出る。
このように、PH試験紙とM8検知紙はその生い立ちや変色メカニズム、用途がまったく違う。だからPH試験紙は有毒化学剤マスタードやVX、サリンの検知には使えない。
化学反応と溶解
じつは長い間、我が国でもM8検知紙の変色は化学反応によるものと誤解されていた。PH試験紙やリトマス試験紙のメカニズムがベースにあったものと推察される。だが、マスタード、サリン、VXに対して特異的に反応して赤や黄金色、深緑色に変色するような化学物質を見出すことは容易ではないだろう。リトマスゴケのかわりに、都合よく3色に変わるようなコケが自然界にあるとは到底思えない。
M8検知紙が米軍で導入されたのは1964年である。そこから、我が国では1970年代から1990年代に至るまで、そのメカニズムは謎のままであった。
そこから、40年前の筆者の苦難と衝撃の体験につながることになる。30代でNBCのマニアックな世界に本格的に飛び込んだ筆者の関心は、どうやったら日本でも検知紙が製造できるかであった。米軍のM8検知紙やM9検知紙が、発がん性の懸念やその他の問題によって入手できなくなる心配もあった。そこで、国産の検知紙があればなあと思ったのである。
まず、過去の論文を見てみると、どれにも「化学反応による変色」と書いてあるものが多かった。その一例と推定される反応例もあった。だが、化学剤の種類によって、都合よく赤、緑、黄色と信号機みたいに変わるような化学反応はどうしても見つけることができなかった。こうなると、過去の関連する研究論文を調べて、検知紙の変色の原理を見つけるしかない。
さまざまのルートに頼み込んで、関係ありそうな論文をすべてプリントアウトしてもらった。それらの英語の論文を片っ端から読んでいった。
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M8検知紙の製造法は和紙の製法によく似ていた