被災しながら最前線で戦う男たちが作る未来<br>陸前高田市消防団 高田分団

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被災しながら最前線で戦う男たちが作る未来
陸前高田市消防団 高田分団

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つらい気持ちの中での 遺体捜索

最後まで消防団の安否を気遣って高田町を走り回っていた大坂分団長は、各部、各分団のメンバーたちにてっきり最前線で死んだものと思われていたようだ。分団長らが6部の屯所にいることが伝わるにつれ、次々と各部の消防団員が集まってきて2日目には50〜60名くらいになった。その後、時間をかけて記憶を頼りながら各部でリスト復元を行い、100名の団員の生存と27名の死亡・行方不明が確認された。

高田分団の当面の主たる仕事は遺体の捜索だった。遺体の搬送や管理は本来警察の仕事だが、最初の2、3週間は消防団が搬送まで行った。遺体の数が多く搬送が追いつかないのだ。一番ショックだったのは、13日に市民会館で行った捜索だった。流されていない遺体が55体あり、何体もの遺体が複雑にからみあったり、津波で天井まで持ち上がったままぶらさがっていたり、コンクリートに押しつぶされて足だけが見えていたりした。あまりにも無残な光景が団員たちを落ち込ませた。遺体の中には自分の同級生や友人、親戚や知り合いもたくさんいる。ほんの少し前に挨拶を交わしたり、一緒に飲んだり笑い合った人たちが、こんなに苦しげな表情で亡くなっている。その遺体を自分の目で見つけ、自分の手で運び出す。それがどれほどつらいことか。

「団員自身も、すべての財産を流されたり、自分の家族を失っている。それでも、瓦礫の中で一日遺体を捜索し、屯所に帰ってきて飯を食う。そしてまた、翌日も黙々と同じ作業を続けるんだ。あいつらはそれを繰り返したんだ」

大坂分団長が暗い目になる。陸前高田市といえば、避難所となった高田一中にマスコミがはりついて、TVでも毎日のように避難生活の苦労が伝えられた。が、人として最もつらい生活に耐えてきたのは、誰よりも彼等消防団である。

大坂分団長自身も写真店である自宅の一切が流され、最愛の妻と娘を失った。助かっているものとばかり思っていた妻と娘は避難所のどこを捜しても見つからなかった。

発災から4、5日経った頃、6部の屯所に泊まり込んで連日現場で活動してきた分団長に、団員らが「申し訳ないけれど、屯所がからっぽになるので残っていてくれませんか」と提案した。被災地では深刻な燃料不足に陥ったが、消防団には緊急部隊としてガソリンや重機用の軽油、暖をとるための灯油が十分ではないにしろ優先的に供給されていたため、盗難にあうことがあった。それを防ぐため、というのが表向きの理由だったが、あまりにも疲弊している分団長を休ませたいという団員たちの温かい心遣いであった。

団員にも疲れがたまってきたので、活動はシフトを組むことにした。部によっては半数以上が死亡し10人を切っているところもあり、事実上6部制の枠組みは用をなさなくなっている。そこで、実動部隊は2班に組み直して1勤1休制とし、当直班のうち6名が夜警の当番を行うことにした。このほか、支援物資や燃料を担当する生活班を作り、3班で回すことにした。家族が避難所等にいる場合は生活の場を家族の元に戻し、家族をすべて失った団員は高田小学校第二校舎の音楽室を団員の宿舎として開放してもらい、共同で生活できるようにした。絶望的な中で絶望的な仕事を続ける団員を一人にさせるわけにはいかなかった。

高田町における遺体捜索作業は当初、自衛隊、警察、消防とそれぞれ別個に行っていたが、あまりにも非効率だと思った大坂分団長は、自衛隊に「とにかく道を作ってください」と頼み込んだ。瓦礫の中で活動していても、いざというとき山側にまっすぐ避難できるルートを確保し、ルートを縦横にさらに広げながら捜索のエリアを広げて行こうとしたのだ。瓦礫で道路が消えた町に効率よく道路を復旧させて合理的に作業を進めていく段取りには、地元をよく知る消防団ならではの知恵があった。自衛隊がどんどん見つけて警察が搬送する。自衛隊と警察がタッグを組んでうまく回るようになるには1ヶ月半かかった。この頃になると破傷風も出るようになり、作業には防護衣が必要になってきた。4月30日、陸前高田市消防団は遺体捜索を打ち切ることになった。

山側から海側を撮影
市街中心部にある大きなコンクリートの建物は外側だけが残った。写真は山側から海側を撮影。右端の建物がスーパーマーケットのマイヤで、マイヤの左奥が市役所。
左端の八角屋根の建物が陸前高田市民体育館。1次と2次を兼ねた避難所だったが、市民を守ることはできなかった。(5月13日撮影)
被災した人、しなかった人

ところで発災後の遺体捜索で忙しい中、高田町ではいつになく火災が発生した。塩水に浸かったハイブリッド車の電池が化学反応を起こし、発火して火事になった。津波の被害を受けていない家が庭先でゴミや草を燃やし、燃え広がって山火事になった事例も複数あった。かつて6台あった消防団のポンプ車は津波で5台が流されている。水は止まっていて消火栓は使えない。雨も降っていない。が、タンクがついていない消防団の車の場合、水利はすべて現場調達。小川を土嚢で堰き止め小さな水たまりを作り、細々と注水するなど苦労を強いられた。いくら町が被災して厳しい状況にあっても、被災していない家にとってはいつもの日常が続いている。不注意による出火が、こうした状況下でどれほどの事態を招くことになるのか、日常の延長で生活している人は気付きにくい、あるいは気付こうとしない。

そんな火元の家には消火で苦労した大坂分団長の叱咤が飛んだ。

「ばあちゃん、なぜ、水ないのわかってんのに燃すんだよ。どーすんだよ。山火事になっちまってよ」

同じ自治体の住民でも、被災した人間と被災していない人間の感覚は正反対といえるくらい違う。それもまた、被災地の現実なのである。

消防団員たち
瓦礫の中で発見された85歳女性の遺体を消防隊員らとともに搬出する消防団員たち。(AFP=時事 3月29日)
アマゾンやブログで 集めた救援物資

被災後の高田分団の活動でもうひとつ、特筆すべきものがある。それは、必要な救援物資を、必要な数だけ、必要な被災者に直接届けるしくみにチャレンジしたことだ。具体的にはAmazonの「ほしい物リスト」やブログ、ツイッターを利用した受援者側からの積極的な発信だ。

事の発端は、被災後2週間くらいあとに分団に通信ができるパソコンが差し入れられたこと。さらに、訪ねてきた大坂分団長の友人がお見舞いに訪れ、陸前高田市の状況や高田分団がお風呂を欲していることなどをツイートしたこと。ツイートしたとたん、早稲田大学の先生、東大坂市の市長、アマゾンジャパンとつながり、救援物資で陸前高田を救おうという気運が急速に盛り上がった。アマゾンジャパンが提案したのは、アマゾンのサイトにある「ほしい物リスト」の機能を応用したもので、高田分団のアカウントを作成し、実際に高田分団が必要と思う商品と個数をそこにリストアップする。支援をしたい人はこれらを購入することで、商品が高田分団に直接届くというシステムだ。これなら、不必要なものが届いたり、大量に届いて仕分けのための人手が必要になることもない。支援する側にとっても、自分の買ったものが直接相手に届く安心感と達成感がある。アマゾンジャパンは県や市などの行政機関にこのシステムを提案していたようだが、興味を示すところはなかったようだ。ところが、高田分団の場合はツイッターつながりで話がトントン拍子に進み、アマゾンジャパンはわずか半日で高田分団のソフトを作り上げた。4月9日にアップしたところ、翌日から次々と支援物資が屯所に到着しはじめ、団員らを狂喜乱舞させた。これがうまく行って、他の分団のニーズも受けて発注を代行するようになった。

4月13日に立ち上げた高田分団のホームページのブログやツイッターでも、「こういうものが欲しい」と具体的に発信する。受け取ったらそれもアップし、十分な量が届いてもう必要ないなら、その旨をアップする。直接身につけるものは、サイズや形をはっきり書き、「できれば新品、あるいは自分でもらってもうれしいようなきれいなものを」と付け加えるのを忘れなかった。大坂分団長は阪神淡路大震災でボランティアに行ったとき、誰も手をつけようとしない古着の山に被災地が手を焼いているのを目の当たりにした。被災しているときこそ、新しいもの、きれいなものを着るちょっとした贅沢が心を癒すことをよく知っていた。

ネットの世界で情報が拡散するなかで、支援の内容がバージョンアップしていくのも体験した。活動拠点となる屯所にどうしても欲しかったお風呂は、最初は流されてきた古いバスタブやドラム缶程度でいいと思っていたが、つぶやいたとたんに「支援がホップ・ステップ・ジャンプ」して、メーカーが新品を持ってきてくれるし、地元の気仙大工が自慢の腕で風呂場の建物を建ててくるしで、活動に疲れた団員たちの心を癒す最高の浴室ができあがった。ネットってすごい、というのが正直な感想だった。

プロ向けの資機材は値が張ることもあり、直接メーカーの社長になんとか支援してもらえないだろうかダメもとで電話をすることにした。にべもなく断る会社もあったし、二つ返事で「協力させてもらいます!」と対応してくれた会社もあった。会社っていうのも、ハートなんだなあ、と実感した。

雨が降り始めて、避難所の人たちに傘の必要が出てきたときには、「そうだ、駅なら持ち主不明の忘れ傘がたくさんあるはずだ」とひらめいて、JR東日本の本社に電話をした。だが、とってつけたような返事しか返ってこない。一番近い新幹線停車駅にも電話したが「対応できません」。そこで盛岡駅に電話してみると「わかりました、これからお持ちすればよろしいですか!」。2時間半後(盛岡から高田は車で普通3時間の距離!)、約200本の傘や杖が屯所に届けられたときには、団員らの目頭に涙が浮かんだ。

屯所の浴室
屯所の浴室
メーカーや気仙大工の皆さんなど、多くの人たちの支援で完成した屯所の浴室。風呂釜やポンプ、湯沸器や濾過機などを装備する。
オレは「ほいど」になる!

「ほいど」というのは、この地方の言葉で乞食のことだ。発災3日後、大坂分団長は全団員を集めた朝礼でこう宣言した。

「オレは今日限りほいどになる!」

高田は他の被災地と違う。まるで原爆が落ちたように、市街地の何もかもが失われた絶望の被災地だ。あるべきところに、なにもない。被災者は、すべてを失い何も持っていない。それならオレがほいどになる。人様に頭を下げて物がもらえるなら下げ続ける、それで町民を守れるなら、いくらでも頭を下げる。そう覚悟を決めたのだ。

高田分団は被災者のニーズを吸い上げ、欲しいと思うものをピンポイントで届ける小回りのきく被災者支援を始めた。被災者がいるのは避難所だけではない。自宅にも被災者がいる。一番むごいのは、高台の家に10人あるいはそれ以上といった親戚や知り合いが身を寄せている場合だ。時間がたてばたつほど肩身の狭い思いが大きくなるが、行くところがないからがまんにがまんを重ねて生活するしかない。そういうところを一軒一軒回り、きめ細かく欲しいものを聞いてまわる。ひとくちに女性用パンツといっても、おばあちゃんのパンツと若い女のコのパンツは別物なのだ。

最後に大坂分団長に一番腹が立ったことを聞くと、こういう答えが帰ってきた。

「いっぱいあるけど言えない。死ぬまで腹の中においておこうと思う。オレはその日から怒りまくっている。その日から家はない、嫁はいない、娘はいない。が、怒れば怒るほど自分が情けなくなるから、怒らないことにした。いちいち腹を立てていたら、怒りの矛先が飛び火するし、人間が下がっちまう」

今、高田分団のみんなががわくわくしているのが、新しい屯所建設の話が持ち上がっていることだ。ツイッターをきっかけに大坂分団長と交流を深めてきた東大阪市が中心となって、高田分団本部となる仮設の屯所を建ててくれることになったのだ。今の行政に大きな力はない。が、この土地にしっかり根を張った1人1人の人間力が、復興に向けたたくましい礎となって陸前高田の未来を作っていく。

救援物資を屯所に運んでくれた
自ら具体的なニーズを発信することで、必要なものが直接届き、必要な被災者に届けることができた。電気もつかず、水道も通らない不自由ななかでも、ヤマト運輸の配達員(右写真右端)は自ら被災しながら毎日全国から届けられる救援物資を屯所に運んでくれた。写真提供/陸前高田市消防団高田分団

Profile

大坂淳分団長

大坂淳分団長

陸前高田市高田分団の大坂淳分団長。発災の11日から6部の屯所に住み込み、精力的に復旧に向けた活動を行っていた。

※大坂淳氏は地域の消防使命達成にご尽力され、2014年にご逝去されました。本記事は震災当時の心情や活動を多くの人に知っていただくため、消防団の許可をいただいて掲載しているものです。

東日本大震災の被災地各地で発災直後から重要な役割を果たしたのが消防団だ。 とくに津波被害で町が壊滅した地域では、かつての町と住民の生活をよく知る消防団は大きな力となった。
写真◎佐々木浩(特記を除く) 2011年7月号掲載記事

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