いつかは大津波がくると備えていた災害医療。その「いつか」は突然やってきた

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いつかは大津波がくると備えていた災害医療。その「いつか」は突然やってきた

岩手県立大船渡病院
2011年4月末、津波が襲った市街地の桜は塩害にも負けず希望の花を咲かせた。高台にそびえ立つ鉄壁の砦が岩手県立大船渡病院。

写真提供◎岩手県立大船渡病院(特記を除く)
Jレスキュー2011年7月号掲載記事

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岩手県立大船渡病院<br>医師 山野目辰味

岩手県立大船渡病院
医師 山野目辰味

副救命救急センター長 災害医療科科長 脳神経外科科長(当時)
撮影/佐々木浩

大船渡市の市街地は高低差があり、国道45号線から下の沿岸部の低地は壊滅的な被害を受けた。市街地の半分にあたるこの地域では木造家屋の多くが全壊、大船渡駅の駅舎やJR大船渡線の線路の一部が流出した。一方、国道45号線から上の高台に位置する家屋は、低層階に浸水被害を受けた家も一部あるものの、傍目には津波のダメージは感じられない。国道をはさんだ高低差による明暗がはっきりと出ている被災地である。

山野目医師の勤務する岩手県立大船渡病院は大船渡市を見下ろす高台にある。救命救急センターを擁する489床の災害拠点病院であり、大船渡市・陸前高田市・住田町の二市一町、人口約8万人を擁する気仙医療圏の中核病院である。

県立大船渡病院からは大船渡港を一望できるが、山野目医師はこの日、津波が押し寄せる瞬間は見ていない。窓の外を見たのは災害対策本部の設置が終わった後で、ちょうど波が引いていくところだった。目をこらすと、陸地のかなり奥まで水が上がっている。地震・津波災害に大しては、制度を整えいつでも対応できるよう準備していた。大津波はいつかは必ず来ると思っていた。でも、まさかそれが「いま」だとは!

「これからどのくらいの患者が搬送されてくるのだろう」と思いながら、気持ちをひきしめた。

翌日一番にやったことは日の丸を揚げること
翌日一番にやったことは日の丸を揚げること。今日から応援部隊が多数入ってくるから、自らの士気を高揚させ、「オレら元気だぞ」と伝えたかった。旗竿がないから屋上の避雷針の登れるところまで揚げた。あとである自衛隊員に「半旗かかげてますね」言われた。
災害対策本部設置

地震で揺れているときからいやな予感はあった。揺れが長すぎる。「あ、これは100パーセントくるな」と感じた。待合室の人たちが動揺しているに違いない。山野目医師は書類や本が書棚から落ちてくるなか、なんとか体のバランスを取りながら待合室にたどりつき、全員に聞こえるようにと声を張り上げた。「動くなーっ」

この病院は頑丈である。設計者が「この病院が壊れるようであれば、大船渡中の建物が残っていません」と太鼓判を押したほどの耐震構造。いわば、丘の上に立つ鉄壁の城砦である。だから、あわてて外に出る方がよほど危険なのである。

揺れが納まりかけると院長室に走り、指揮所となる災害対策本部設置の許可を得た。災害時は山野目医師が指揮官となる。

「全館災害医療体制を発動します!」と館内にアナウンス。3時27分に総務課に院長を本部長とする災害対策本部が立ち上がった。本部設置手順はマニュアル化されているが、年に2回は訓練しているから黙っていてもきびきび進む。ライフラインについては、停電になったが自家発電機が3台あり、15時に切り替わった。医療機器は全部動かすことができ、手術にも支障はない。燃料となる重油は備蓄量が半分になれば補充する決まりで、たまたま昨日補充して満タン状態。半分ですべての自家発電機を使ったと仮定しても2.5日は持つ計算なので、不必要な照明を消すなど節約すれば6日から1週間は十分もつ。エレベーターは停止。患者のフロア移動は大変になる。

水は一旦止まったが、外部の水道管が地震でダメージを受けたためで翌日午後には復旧した。病院の水タンクは、平成15年の三陸南地震で被害が出たが、それを機に災害医療マニュアルを作りハード面をチェック、水タンクも強化して配管もフレキシブルジョイントに変えておいたため今回は被害がなかった。外部との電話は不通。院内連絡用には屋上にアンテナを立て、簡易無線機を用意している。出力が高めのなので、市街からの距離でも連絡ができる。ただ、インターネットは長い間接続できない状況が続き、情報収集では不便を強いられた。復旧したのは4月末のことだった。

災害対策本部は事務室の総務課に設置。翌朝6時過ぎだが、すでに秋田DMATの姿が見える。
ホワイトボード
災害指揮本部では14時50分から各所から上がりはじめた状況報告やライフライン関係情報を逐次一枚のホワイトボードに記入していく。
時系列で状況をメモしていくボード
時系列で状況をメモしていくボード。混乱している中では情報をきちんと整理して記録いくことが重要だ。
続々と搬送される患者

災害医療の外来部門設置もまさに訓練通りに進められた。15時05分には病院本館の外にトリアージポストの設置を開始し、救急救命センターにレッド、本館にグリーンとイエローのエリアを設置。それぞれリーダーとなるドクター、ナース、事務がトリプルで動き、山野目医師がいる本部に情報を逐一上げていく。

津波が国道45号線で止まり、国道が通行可能だったことから、発災直後から患者は次々に搬送されてきた。発災当日24時までの搬送人数は98人。今回の津波の患者は黒・緑が大半で赤は少ないというのが定説だが、山野目医師によれば「まだ完全に分析しきってはいないが、この日は98人中28人が赤、その後2名死亡するも他は救命。黒が8人、他は緑と黄。赤のほとんどが溺水で汚い水を肺に飲み込んで呼吸不全に陥った患者さんだった」という。初日に関しては、極端に赤が少ないわけではなかった。

平時と異なり、ほとんどの患者は事前連絡なしに搬送されてきた。また、救急車だけでなく消防団のポンプ車も次々と患者を搬送してきて、その数が多いことに驚かされた。さらに、翌日からはヘリが続々と患者を搬送してきた。

本館の玄関前の屋根つき歩道にトリアージポストを作って待機中。
本館の玄関前の屋根つき歩道にトリアージポストを作って待機中。
グリーンのブース
玄関を入った待合ホールに設けられたグリーンのブース。切り傷などの処置をしている。
診療科待合
背もたれを倒すとベッドになるソファを置いた診療科待合は、ある態度の処置が必要なイエローのブースに。
診療ブースへの動線
混雑が予想された急性期には床にテープをはって診療ブースへの動線を確保した。3月14日には薬をもらいに来た患者が多いなか、原発の爆発と大津波予報が重なって避難者が院内に流入。そこで再び出入り口を1ルート化してラインをひき、受付でコントロールして人数を制限した。

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